中嶋雑記帳

同人誌サークル中嶋商事主宰、中嶋條治のブログです。

映画『僕とオトウト』について

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映画『僕とオトウト』レビュー

 


本作を知ったきっかけは、映画ファン繋がりで交流させて頂いている、本作の上映委員会副会長である荒木氏が行う宣伝だった。

彼は日本大学芸術学部映画監督コースに在籍しており、彼の映画にエキストラで参加させて頂いたご縁がある。

 


私もセルフドキュメンタリーを大学の卒業制作で撮影した経験がある。だからこそ、学生が撮ったドキュメンタリー作品が劇場公開される事に少しの嫉みと大きな喜びを感じていた。

しかも、学生を主体にした上映委員会が配給・宣伝を行うと言うではないか。

私が大学で映画を専攻した時は、脚本・演出・制作・撮影・録音・照明助手・編集・美術装飾・エキストラ等をやったが、唯一出来なかったのが配給であった。

「ちくしょう、うらやまけしからん事しやがって」

…などと思ってしまった私を責めないで欲しい。

勿論、学業やそれ以外の活動に加えて配給に携わる学生委員会諸氏の苦労は察するにあまりある。

結果、テーマや内容を少し聞いたくらいで、本編を1フレームも見ていないのに荒木氏に対し

「公式Twitterが3ツイートしかないから、もっとこれこれこう言う内容を呟くといい」

「固定ツイートに映画の予告を載せて見れるようにしては」

「仲間内でいいからとにかく拡散をするように」

などと、無責任にアドバイスをしてしゃしゃり出た。一応そんな事を言い出した手前もあり、自分のアカウントや、裏のアカウントも使って、本作の情報を拡散した。

YouTubeでも動画をバシバシ投稿した方が良いと思ったが、多忙な為困難だと言う事になり、Twitterの「スペース」機能を使っての宣伝を提案したりもした。

スタッフの生の声と熱意を届けるには、呟きだけではなく、映像や音声が必要だと思ったのである。

私だけではスペースに多くの人は呼べないので、より集客力のある三次元からきたブロンディ氏にも御協力を賜り、スペースはつつがなく成功した。

こうして私は、学生時代に出来なかった配給宣伝の一助になるのを楽しんでいた。ただの老害予備軍である。

 


映画の上映も近づき、プレイベント『僕オトの湯』も盛況だったが、劇場鑑賞自体は諦めていた。

千葉県民の私にとって、近畿地方に映画を観に行くのはなかなかのハードルであった。

また、学校相手のカメラマンと言う職業柄、緊急事態宣言明けの10月〜11月は撮影スケジュールがビッシリと埋まっていた。

いつか関東圏進出ができるくらい、関西興行が当たれば良いな。それぐらいに思っていた。そうなれば私も見にいけるからだ。

 


だが、私が『僕とオトウト』を観るのは予想に反してかなり早まった。

何とプロデューサーや監督から許可が出て、特別にサンプル版を観させて頂けたのだ。

これはレビューしないわけには行かないと思い、こうして下手な筆をとっている次第である。

 


※以下、ネタバレを含みます。未鑑賞の方はくれぐれもご注意下さい。

 

 

 

 


『裸になった兄』

 


「家族を撮る」と言うのは、簡単そうに思えて中々難しい。私的なホームビデオや、我が子の運動会やお遊戯会ならばまだしも、セルフドキュメンタリー映画と言う形になると、

「これは映画なのか、ホームビデオなのか、どっちなんだ」

と、プロデューサーからお叱りを受ける場合もある。

映画制作専攻だった私の卒業制作が正にそれだった。私自身、撮る物事が定まらず作ったものだから、結果ペラペラな作品になってしまった。

この映画『僕とオトウト』も、(私のような意思薄弱さは無いにしても)そうした危険性を孕んでいたのではないかと思う。

本作は監督を務める高木祐透氏が、重度の知的障がいを抱える弟の壮真氏にカメラを向けたセルフドキュメンタリー作品である。

壮真氏は18歳になり、養護学校を卒業しようとしている。体が大きくなり、力もついてきた。今までは御母堂が押さえつける事ができたとしても、これからは厳しくなる。今後両親が他界したら、監督の祐透氏が壮真氏の面倒を見ていかなければならない。そうなる前に、もう少し弟について知っておきたい、理解しておきたいという目的で、高木監督は「オトウト」にキャメラを向けたのである。

前半のあたりは、悪い意味で映像が「緩い」。

また、機材のせいなのか音声に難がある。キャメラから少し遠い距離で撮影されたシーンは、音声が耳障りになり、ストレスすら感じるほどだった。

だが、そんな中でも、監督がiPhoneで鏡に写る自分達を撮影する画が出た時は「新しいなぁ」と感心した。SNSであれば、筋トレ女子が鏡に写る自分の肢体をスマホで自撮りした投稿をよく見るが、「映画」のスクリーンでは今まであまり目にしてこなかった画である。

しかも何の映像を撮っているのかと言えば、兄弟仲良く歯を磨いてる風景だ。2人の関係性がよく分かり、見ていて微笑ましくなる。

 


「親は最高の映画監督であり、カメラマンである」

これは私の恩師・成田裕介監督に言われた言葉だ。お父さん・お母さんは我が子を愛してやまないので、運動会やお遊戯会のビデオなどを見ても親の愛情がヒシヒシと伝わって来る。プロには撮れない映像なのだと言う。また撮られる子供の方だって、大抵は親が好きだろうから、撮られている時の表情が素晴らしい。

この歯磨きの場面も正にそうだ。「兄弟」と言う関係で撮影されているからこその温かみに溢れた映像になっている。

しかし、成田監督はそのあとにこう続けている。

「その代わり、そうした映像は、他人には興味が持たれない場合が多い。よその家のホームビデオほど退屈なものはないからだ。我々プロは、他人を楽しませる映像を撮れるようにならなければならない」

そう、まだここまでは、『僕とオトウト』は劇場公開映画として弱い気がしていた。

そんな中、とある場面で非常にデリケートな画が出てきた。家族が、特に母親が仮に気付いていても決して口にしてはいけない行為を、画に映してしまっているのだ。しかもそれについて母親と会話している!

「劇場公開映画として弱い」だの、私の抱いていた生意気な感想は見事に粉砕させられた。

高木監督の覚悟が伝わり、「ちょっとこの映画はタダもんじゃねえぞ」と襟を正さずにいられなかった。

それでも全体としてはまだ緩い雰囲気が進む中、映画の流れが中盤でガラリと変わる。

 


髙木家では、壮真氏の行動が昔から余りに危なっかしいので、全ての部屋に鍵が付いている。

何しろ商業施設の防火用のボタンがあれば押してしまうし、トースターに物を入れて火事の一歩手前にまで来たこともあるくらいだ。

だが、監督はそのようにして弟の壮真氏を押さえつけていたら分かり合えないと思い、

「壮真の好きにさせてやろう。そうすれば、壮真が何をしたいのかもう少しわかるかもしれない」

と思い立ち、鍵も全て開け、好きにさせてあげてみた。

結果、弟が何をしたいのかがわかったので、「よし、これはいけそうだ」と本作プロデューサーの池谷氏の元へ報告に行く。

すると、そこで池谷氏からダメ出しを喰らう。

しかもフィックスの引きの画で、淡々と

「そういう、高みからの言い方は、目線が違うんじゃねーかな」

…と、言われてしまう。

出鼻が挫かれる格好になり、いやでも観客は「この後どうなるんだろう…」と思わずにいられない。

本作はこの瞬間まで手持ちの映像が多かった。そんな中、いきなり引きの固定の画が出てくるのだから、タダでさえこのシーンは印象に残るのだ。

しかも、この場面で初めて本作に「他人」が登場する。今までは兄弟と母親、養護学校の先生、これしか登場していないのだ。初めて出てくる、全くの第三者。その人物からの意見が観ている人の心に深く突き刺さる。

初めて登場した「家族」以外のキャラクター。しかも手持ちではないフィックスの画が観る側に余計なストレスを与えないお陰で、ストレートに池谷氏の言葉が頭に入る。

ここで遂に、映画が転がり始めたなと思った。

その後に出てきた監督の独白ショットには息を呑んだ。部屋は真っ暗であり、ライトのせいか、顔に幾つもの影が浮かび上がり、今までとは全く違う雰囲気が出てくる。

しかも、間を置かずに弟がとある事件を起こしてしまう。ここで初めて出てきた父親がかなりきつい発言をしているので、観ているこちらとしては虐待を疑うほどだった。

前半のホームムービーが、池谷氏登場以降ガラリと変わる。緩み切っていた糸がピンと張り詰められたような感覚。「ドキュメンタリー映画」に化けた瞬間だった。

祐透氏の動揺、苦しみ、寂しさが、これ以降どんどん画面から溢れ出てきた。

 


そうした様々な事件・葛藤の末、監督は初めて父親と対話する。

今まで(本編中では)母親としか対話していなかった監督が、壮真氏についての思いや考えがどうも他人事に考えているように感じる父親に対し、24年間の思いの丈をぶつけた。

監督の祐透氏はこのドキュメンタリーを撮って、弟を理解しようと思っていたが、結局は自分の悩みにぶつかっていく。

本作のコピーには

「カメラを持った。見えてきたのは自分だった」

という文言がある。まさにそうだ。本編で様々な映像が出てくるが、積み重なっていくのは弟・壮真氏への理解というより、それ以上に監督自身の悩み、やり場のない悲しみや怒りである。

父親に思いをぶつけ、自らの体を叩き、声を荒らげる監督の姿は悲痛極まりない。

そんな傷つき疲れ切った監督を優しく抱きしめてくれたのは、母でもなく、父でもなく、監督が今まで散々「理解しよう」「何でも好きにさせてあげよう」と思い、何度も抱きしめてきた他ならぬ「オトウト」壮真氏だった。

私はその場面を見た時、思わず涙を一粒流してしまった。これはやられた。

良い。編集が非常に良い。

兄が弟の事を考えているように、弟も兄の事を考え、心配しているのである。

兄弟とはいえ、全ての気持ちが通じ合っているわけではない。

だからこそ祐透監督は、映画のクライマックスで「オトウト」壮真氏と腹を割って対話する。そして壮真氏の事を「わかってしまわない」ように向き合っていこうと思い立つ。

親というもの、兄や姉というものは、自分の子供や弟・妹についてわかったような気になってしまうものである。だが、それは単なる思い上がりであり、実際は見てないところでしっかり成長をしている。「男子3日会わざれば刮目して見よ」と言うが、全くそうだと思っている。しかもいつの間にか好きな趣味などを自分で見つけていて、「いつの間に⁉︎」とビックリするものだ。

だからこそ、監督・祐透氏の弟に対する向き合い方の決意は素晴らしいと思うのだ。

この映画で描かれた兄弟の対話、「お互いを分かってしまわないようにしつつも、しっかりと向き合う行為」は非常に普遍的なもので、多くの家庭ではこうした対話や向き合いが中々できていないのではないかと思っている。

もしこの映画を見たお客様に、自分の家族への向き合い方を考えるきっかけを与えることができたら、とても素晴らしい事だ。その可能性は非常に高い。それだけの力が本作にはあると確信している。

 


実際、本作は短く、画も正直そこまで良いものが少ない。だが、不思議なことに力がある。監督の裸の心が垣間見える。

その心を曝け出した監督の覚悟に感動したからこそ、私はこの拙い文章を書こうと思い立った。

他人には逆立ちしても撮れない、高木祐透監督だからこそ作ることができた唯一無二の映画。それが『僕とオトウト』だと思います。

 


ぜひ、劇場でご覧ください。

 

 

↓映画『僕とオトウト』HP

https://boku-to-otouto.com/

 

京都みなみ会館 10月22日〜終了未定

元町映画館 10月30日〜

シネ・ヌーヴォ 11月6日〜